JI'CS  
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灰山彰好
studio HAIYAMA
明治建築が遺した日本近代史の光芒と小さな疑問をさぐるシンポジウム   
      興雲閣とモダンデザイン      
           
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   2014年9月28日(日)、島根県支部正岡さち氏(島根大学)のご尽力で、島根県指定文化財興雲閣の見学会とシンポジウムが開催されました。松江城公園の一角で、明治建築特有の存在感でたたずむ興雲閣は、歴史家からは最後の擬洋風という一寸分かりにくい形容を頂戴し、鳥取県の仁風閣と常々比較されている歴史建築物です。仁風閣が片山東熊という明治の建築家の草分けとして後世に名を残すことになる人の指導を受けた優等生的建築あるのに対して、興雲閣は設計者不明のアノニマス建築、しかしそのアノニマス建築特有の分かりにくさが、見た人に強い印象と謎を植え付け、プロアマ問わず建築探偵を増やし続けている・・・らしいです。
 興雲閣は現在は大がかり改修工事中、来年中にはペンキの匂い(つまり明治の匂い)をプンプンさせて白亜の威容を現すことになっています。この度のシンポは新・興運館の竣工を前に何か応援演説をやれ-との島根会員からのお呼び掛けと受け止めています。
 

練習艦鹿島(Wikipedia) 
基調講演要旨
興雲閣と明治建築の魅力

足立正智氏(社団法人島根県建築士会会長)


嘉仁親王の行啓

 明治になって天皇は日本各地を視察旅行し、各県も天皇の行幸を切望した。島根県への行幸も明治35年に一度は決定し、興雲閣が迎賓館として翌36年に竣工したが、日露戦争(明治37-38年)の勃発により、行幸は延期となった。日露戦争後、島根鳥取の両県は共同して招致運動を再開し、明治40年、嘉仁親王(後の大正天皇)の行啓が決まった。皇太子ご旅行の旅程は、舞鶴港までは鉄道、舞鶴港から堺港までは軍艦に拠る海路、堺港から鳥取までは開通したばかりの鉄道、そして島根県側は馬車行列であった。ご旅館は洋風、擬洋風、和風と様々であったが、ここで気になるのが、同じ迎賓館の目的でほぼ同時期に建られた鳥取県の仁風閣(明治40年竣工)と島根の興雲閣の様式的な相違である。仁風閣は当時最新の洋風建築(フランスルネッサンス様式)であったのに、興雲閣はなぜ、すでに時代遅れだった擬洋風で建てられたのか。この謎を問う前に、明治日本の洋風建築をおさらいしてみたい。
           
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  泉布観(明治4年ウォートルス)
薩摩から始まった擬洋風建築

 幕末の雄藩薩摩には造船や兵器製造のために外国人技術者、またサーベイアーと呼ばれる山師が集まり、建築家ではなかったが必要に迫られて数多くの建築物を設計し(絵を描き)、日本の大工が和風構法でこれらを建てた。これらは後に擬洋風の名でグルーピングされる明治初期の洋風建築であった。グラバー邸で代表されるベランダコロニアルと呼ばれる植民地経由の洋風建築も、当時多数建築された。
 彼ら外国人技術者は維新を経て東京に進出し、明治政府や経済人のために怪しげな洋風建築を多数設計して時代を謳歌するが、欧米との交流が深まると彼我の洋風建築の違いが露呈し、コンドルを初めとする外国人招聘建築家、また彼らに師事した日本人建築家が官公庁の設計を担当するようになる。それが明治20年頃、擬洋風建築は東京では姿を消すが、地方ではなおしぶとく生き残る。興雲閣が最後の擬洋風と呼ばれる所以である。

 
島根県二代目県庁舎
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興雲閣をなぜ擬洋風で建てたか

 興雲閣の竣工年は明治36年と、仁風閣の同40年との差はわずか4年であるが、日露戦争(明治37-38年)を挟んで、西欧情報収集の面では格段の差があった。そしてこの情報量の差が内外建築家招聘をためらわせ、県庁営繕の仕事にする結論を導いたのではないか。また末永く県民に親しまれる建物にするために、人気のあった二代目県庁舎(明治12年、写真)に外観を似せたのではないか。
           
 
タウトによって発見された日本的近代
(桂離宮松琴邸, Wikipedia)

            
パネラー1発言要旨
興雲閣のモダニズム

灰山 彰好 (中四国支部)

 明治期は洋風化と近代化が混然一体となって押し寄せた時代、国も国民(市民層はまだ台頭していない)も一心にこの目標に向かって邁進した。大正期になると両者の違いが自覚され、近代化を日本独自に咀嚼する機運が生まれた。興雲閣は様式史では擬洋風(=時代遅れ)と評価されているが、技術史的に当時最新の木造建築物であったなら、それはそれでアラモード(当代風)な建築作品だったと言えるのではないか-との視点から、興雲閣の平面図と断面図を製図板上に(CAD上に)広げて、設計者のモノづくりの心の追体験を試みた。
           
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平面図
 明治36年の平面図から軸線探しを試みてみると(図面タイトルは工芸品陳列場となっていた!)、プランは一間グリッドを基準にして描かれていた。部屋の大小によって境界はグリッドをずれているところもあるが、しかしズレは和風の間取りと同様に尺単位であり、室名は畳数ならぬ坪数が記入されていた。中廊下ブランは伝統和風には見られない明治以降の所産であるが、部分的には間取りの自在性が残されていたわけである。明治26年の計量法制定一間の長さが6尺(1818ミリ)と定められたとあるから(Wikipedia、それ以前は一間の長さに統一が無かった)、当たり前と見過ごすには惜しい近代化史料である。但し外壁、ベランダ回りは一間グリッドに載っておらず、室内から見た窓割には整合性が無い。和魂洋才が明治人の気風とよく言われるが、洋風外観は納得づくのお仕着せであったのだろうか。
 
藤井厚二の日本の住宅 
 京都大学建築学科教授藤井厚二は、新しく台頭した中間市民層のための<普通の住宅>を提案した。洋館は日本の気候に不適であると否定し、近代和風の路線を追求している。 



キングポストトラス(Wikipedia)
青:圧縮力 赤:引張力










 
スティックスタイル
アメリカ生まれの建築家による住宅
雑学ツーバイフォー物語7


断面図について
 大工が見様見真似で建てた擬洋風建築と、西洋建築術を学んで建てた洋風建築との間に見えない違いがあるとすれば、それは和洋の小屋組みの違いではないか。擬洋風の議論にはなぜかこの記述がなく、興雲閣についても、この度の改修記録を見て初めてキングポストトラスであることが分かった。11mスパンのおおらかな小屋組みをCADで再現してみると、むしろホールにふさわしい威容を示しており、天皇の宿泊所という暫定的な用途を終えた後の発展が目論まれていたように見える。
*和洋の小屋組み
 和風小屋組みでは、丸太梁の上に束を立てて屋根勾配をつくる。束が転ばないように縦横に取った貫(ぬき)が、古民家でよく見る小屋組みの構成美を形成する。一方洋小屋では、梁に見える水平梁(陸梁)は、屋根勾配をつくる合掌梁の圧縮力を相殺する引張り材であって、自重で垂れないようキングポスト(中央の束)で吊られている。丸太梁の長さの限度を3:間(5.4m)とすれば、これを真ん中で繋いで6間(11m)のスパンがつくれることになる。トラスは西洋人の知恵を代表しているが、斜材が醜いかどうか美意識の問題は別、日本の大工は醜いと思っていたのかも-。
 
            
板張り外観について
 ヨーロッパの様式史は石造建築物の上に刻まれているのであるから、洋風木造は植民地経由に違いない。では興雲閣はどこから来たのか。松江市歴史叢書3(2010年)の中で永年建築文化財の保護に携わる堀勇良氏は、興雲閣はアメリカ発祥の木造建築様式スティックスタイルを思い出させる-と書き、コロニアル風とグルーピングされる建築のオリジナリティーに理解を示しておられる。つまり、興雲閣は情報不足の中から生まれたオリジナル建築ではなかったか。ベランダコロニアルもまた、松江城公園にふさわしいとの理由から、改めて採用されたのではないか。よく考えてみたら、改修を続けてきた興雲閣は今なお未完成の建物であり、興雲閣のチャレンジは今なお続いている-として、県民や観光客に開かれた施設になるとの今回の改修に期待を寄せた。
  パネラー2発言要旨
明治住宅の造形的なチカラ-再生事例を通して

中川 裕二氏(中国インテリアブランナー協会)

 広島で設計事務所を主宰する中川氏は、最近手掛けた明治40年竣工の被ばく住宅(この住宅が建っていた宇品は、爆心から遠く、火災を免れた)を保存再生するプロジェクトを紹介し、興雲閣はなお未完成であるとの観点から、ただ元に戻す思案をするだけでなく、思い切ったコラージュも面白いし意義がある-との主張を、美しい映像を使ってフロアに訴えた。新興雲閣にはその歴史上初めての「カフェ」が開設されるとのことであり、明治の造形的チカラの再現を、ぜひ期待して待ちたい。

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ディスカッション

 シンポジウムに先立つ改修工事の見学で、思いが゛けなく大がかりな鉄骨耐震補強を見た後だったので、建築専門家ばかりではないフロアへの配慮もあって、司会者が公園施設としての興雲閣の展望に話を向けようと色々とご腐心されたにもかかわらず、耐震補強への疑問に質問が集中した。他にもっと目立たない方法はなかったのか。
 足立氏は質問に答える立場になかったが、文化財保護の観点から新築時の状態を残すことを最優先する(鉄骨補強は別物として容認される)教員委員会の方針を説明された。


まとめ、あるいは後知恵

 キングポストトラスと知って、11mスパンを軽々と渡る立体的構造物を想像していたので、工事現場で実物を見て予想との違いに驚いた。トラス構成材が、隣の松江城のそれに引けを取らないほど太いのである。しかもわず一間間隔で設けられている。経験やカンに頼る限り、材の太さは最初に見たもので決まる。では設計者は何を見たのだろうか。
 そこで筆者は(といってもシンポには手遅れであったが)、数年前に見た唐招提寺の改修工事のTV放送を思い出した。明治の改修工事で、唐招提寺の小屋組みがキングポストの洋小屋に取り換えられていたことが、ニュースとして伝えられていたのである。仔細はどうだったのか、早速DVDを見て確かめた。
 明治30年、古社寺保存法が制定され、唐招提寺は明治31-32年にわたって、当時の建築史学の第一人者であった東京大学(明治28年造家学科卒業)の関野貞の指導のもとで大改修を受けた-とのことである。TV番組のハイライトは、小屋組みの洋風化に当てられていた。唐招提寺は瓦土の重みで屋根が沈み込み、四周壁が外側に傾く持病に永年苦しんでおり、関野は西洋近代の知恵でそれを食い止めようとしたという。外観はそのままで中身を近代化したことで、これでは洋魂和才だと揶揄されたそうである。
 スパンは7mほどと興雲閣より小さいが、在来構造材との釣合いか断面は十分に大きく、間隔も一間ほどと短い。洋小屋の普及を目指す関野の影響下、県庁職員にもこれらの情報は届いていたに違いない。ちなみに平成の大改修の構造的テーマは、阪神大震災から学んだ(庇部分への)水平トラスの追加であった。
 ところで、インテリア学会なのになぜ小屋組みの話を長々続けるかというと、興雲閣の余りに重すぎる小屋組み(材断面が大きく間隔が小さい)が、耐震力の確保が最重要視される今回の改修で、別に建てた鉄骨ラーメンによって耐震力のすべてを負担するほかなし-との結論に到達したに違いないからである。興雲閣の長い近代化の旅は、ようやく終わったようである。
 



日本インテリア学会中国四国支部