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研究ノート
インテリアデザイン

003
読書ノート
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岡 南 著

天才と発達障害/映像思考のガウディと相貌失認のルイス・キャロル

を読んで−

灰山彰好(studio HAIYAMA)
 

 去る金沢大会において、近代建築のモットーである「へやから空間へ」に照らして、インテリア教育の定番である一部屋の透視図課題には問題ありとする内容の研究発表をしていた折、フロアーから「空間把握の矯正はかなり困難、ビョーキ*ですから」との指摘があり、何のことかとお話を伺った方が、後に本書を出版された岡南さんであった。昔の建築学生の座右書が「空間・時間・建築」だったせいで、時間空間の対立を超越した高みに近代建築がある−と頭の中で納得していたが、生理心理学的には、両者間の行き来はそれほど単純なものではないらしい。永年工夫してきた設計術の根幹にかかわることであるので、少し時間をかけて本書を読ませていただいた。要点を私流にノートしてみたので、ご参考になれば幸いである。

*こんな失礼な言い方を、もちろんご本人はされていない。無くて七癖、誰もが持っているやまれぬ性癖の一つや二つのことを指す。


 岡氏自身はインテリア設計事務所を主宰する実務家であるが、以前より小児心療科医師、児童心理を専門とする教育者と交流(師事か)を重ねられ、児童の発達障害に関する数冊の共著作をものにしておられる。そして本書は、より御自分の得意分野に話題を絞ったという意味で、満を持した感のある大部の自著である。前共著「ギフテッド/天才の育て方」によれば、人の認知型には視覚優位(冒頭で触れた空間思考に当たる)と聴覚優位(同、時間思考か)の対比的な二傾向があり、発達障害が指摘される児童の多くは聴覚不全か、または視覚不全の傾向を持つという。知的障害とは言えなくも、物ごとを順序立てて説明できないゆえに先生友人とのコミュニケーションを欠き、文字記憶中心の学力テストで後れをとり(岡氏は視覚優位、聴覚不全の方に特に御関心があるようである)、結果として自閉症的言動を示す、いわゆるアスペルガー症候群を疑われる児童が、近年学校で話題になっているとのことである。ビョーキならば治療か隔離か、と反応するのが従来の学校教育であるが、そのような児童がしばしば示す視覚優位の能力(例えば動物図鑑を全部覚えているなど)は、ダーウィンのような天才科学者の幼少期に見られた傾向であるので、天与の資質・ギフテッドを理解し伸ばす教育プログラムが必要である、との主張が著者たちの言い分である。敢えて忖度すれば、聴覚優位、聴覚一辺倒の先生たちも、それはそれでビョーキである、と言っておられるようでもある。大学教育はともかく、児童教育では誉めて育てる−が鉄則である。


 さて「天才と発達障害」での岡氏は、医者でも教育者でもない立場をフルに利用して前著作の話題に思い切ったハサミを入れ(障害児童の症例がすべて省かれている)、発達障害の問題には縁がない、あるいはそう思っている読者にも面白い読み物に仕立てておられる。本書の俎上に上がるのは、典型的に視覚優位的言動に終始したガウディと、人の顔も覚えられないほど視覚能力を欠くゆえに、読むものに目眩を覚えさせる文体をものにしたルイス・キャロルの二大天才のみである。また本書「天才と発達障害」は前著「ギフテッド・・・他」と違ってわずか3章で構成されているので、特に読書好きとも言えない私にも、要旨の展開が把握しやすい。以下に読書ノートを記して、空間研究の備えとしたい。認知問題に心当たりがある方、本書を読んでみようかと思う方のご参考となれば幸いである。

 
 

1章 あなたは「視覚優位」か、「聴覚優位」か

 私がまだ若手○○だったときのこと、建築学会で記号論を標榜する研究発表を行っていた折に、ある研究グループから「あなたの研究は空間認知の研究ですか」との問い合わせを受けたことがある。その時は「多分」というあいまいなご返事をしたが、この度本書を手にした時、今度は私が同じ問いを抱いた、「この本は空間認知の本ですか」。空間認知は視覚障害者にも備わるから、視覚認知と空間認知が同一ではないことは言うまでもないが、しかし求める本質は同一ではないか。岡氏は「もちろん」と答えられるであろう、との前提で本書を読み進んでみるものとする。

 本書構成の骨格をなすのは、人の認知(事象について知ること)は視覚優位か聴覚優位か(聴覚不全か視覚不全か)との2タイプに、対比的に分類される−との仮説である。仮説の実証は、前著までの著者たちの実践的研究レポートの中でなされているが、ここで注目しておきたいのは、物ごとを対比的に理解したがる著者の視覚優位者に特有の性向であり、事実、著者の先輩も、序文の中でそのように証言されている。

 視覚優位者(聴覚不全者)を議論の俎上に乗せるべく、この章では続いて視覚優位性における「全体優位と局所優位」「色優位と線優位」等々の認知の偏りが、ロートレック、モジリアニ、マチスなどよく知られた画家の画風の違いを題材にして平易に解説されており、設計教育に携わった者としては興味深い、というか耳が痛い。例えば「音楽に流れた学生は製図室にもどってこない」との定説は、最初の仮説によって裏付けられよう。油絵を好んで描く学生が必ずしも設計がうまくないのは、「色優位と線優位」で説明がつく。「全体優位と局所優位」の傾向は、学生に限らず一人前の設計者にも見られる性向である、等々。もちろん努力によって例外となった人も多いと思われるが、得手を伸ばす教育がベターではないかと著者は説く。

 この章を設計教育に役立てるとすれば、学生一人一人のクセを見抜いての指導、となろうが、インテリア設計の在り方そのものについても、何かヒントがあるように思える。岡氏のご提案を期待したいところである。

 

 

第2章 アントニオ・ガウディ「4次元の世界」

 建築界の天才といえばこの人、ガウディの空間認知に関わる生得の資質、専門学校での成績、建築家として自らに課した修練、等々のエピソードについて、発達障害研究者の視点から詳細な検討を加えられている。大学の設計教育はコルビジェモダニズムに準拠しており、ガウディはアンチモダニズムの反骨者のように受け取られがちであるが、もちろん事実関係は異なる。コルビジェに先立つガウディは、唯、自分たちの近代像であるモデルニスモに熱中していたのであって、もしもモデルニスモがその後の世界を席巻していたら、地球はまったく別の惑星(アバターか)になっていたに違いない。

 さて、著者が発掘し、我が意を得たりと喜ばれたであろうエピソード・・・人には視覚優位者(空間の人)と聴覚優位者(時間の人)があって、自分は前者に属することをガウディ自身が自覚し、それを文章に残しているとのことである。ではガウディには、極端な視覚優位者にありがちな発達障害があったのだろうか。幼少時のガウディは病弱であって、病弱を克服する努力が生得の能力(ものづくりがガウディ家の血であるという)を伸ばすことに役立った等々は伝記を調べれば分かるとして、はたして彼に発達障害があったのかどうか。岡氏は、ガウディがディスレクシア(識字障害者)であったとの研究論文を敷衍して、天才的な視覚優位者に潜む闇を推理している。

 ディスレクシア*とは、スペルと発音の対照関係が複雑な国語(英語、フランス語など)によく生起するミススペルや発音障害であるという(Wikipediaの要約)。岡氏はディスレクシアが映像思考型の人に多いことに着目し、映像記憶の超人ダーウィンのミススペル癖を傍証として引用している。天才の発達障害を推理するプロセスは本書のヤマ場であり、著者の筆力を堪能できるパートであるので、やはり一読をお勧めするほかはない。
*知的で美人で金持ちで文句なしの英国人気女優、キーラ・ナイトリーがディスレクシアであったと告白している由。だからどうだというわけではないが−

 以下はよく語られるエピソードについてのディスカッション・・・ガウディの建築を決定的に特徴づける彫刻群については、二次元の写真資料から三次元の生きた世界を復元する「解凍能力」についての言及がなされている。ガウディは写真を見てスケッチしてみたのではなく、造ってみようと反応した−との指摘は、優れて教育的である。

 建築学校でのガウディの成績については書く人も多く、概要は伝わってきているが、著者は当然、初等教育での学業成績に注目する。読み書きに問題を抱えながら(つまりは成績不良)特異な才能を示す学童をアメリカでは2E児と呼んで区別し、才能教育の範疇に入れて特別な注意をはらう提案が行われているとのこと、まさにこの一行が、著者の願いなのであろう。ガウディの中等教育での成績は記録があり、幾何学が優、しかし他の成績もほどほどに修めている。ガウディは努力家でもあったのである。

 では全体優位と局所優位に関してはどうか。ディテールや装飾の圧倒的な印象から、ガウディは局所優位のタイプと即断しがちであるが、当の本人が自分は全体優位の人であると明言しているとのこと、細部をまかせられる友人がいたことも、力の配分に有利したと思われる。色彩優位か線優位かに関しては、色彩は生命のしるし、ガウディは断然色彩優位タイプである、と著者は診断している。色彩優位はまた、具体優位とも通底するようである。

 最後に、「4次元の−」とは何か。平面図の中を歩きながら考えることができるガウディの資質を指すとのこと、何度も繰り返し強調されるガウディの具体感覚(実務感覚とは異なる)こそ、今日の設計教育に欠けるもの、との主張を込めたタイトルであったようである。

 
 

第3章 ルイス・キャロルが生きた「不思議の国」

 本章を軽く読ませていただいたところでは、ルイス・キャロルの事績は視覚不全症例の宝庫であるようである。著者にとってはガウディ以上に我が意を得たりの内容であるが、私はファンタジーが全くの苦手、「−アリス」も最後まで読んだ記憶がないので、この章の読書評はご遠慮したい。唯、一度だけあった該当する経験について−

 現役時代に他ゼミの学生から、「アリスの不思議な国」を卒業設計に描くので、製図のご指導をよろしく、と頼まれたことがある。私は設計指導を口ではなく手でする方なので、彼女の「不思議に国」には少し実感が残っているが、他の多くの学生の設計指導と特に変わったところがなかった−つまり多くの学生の設計が不思議な国状態(階段がメビウスの輪状態とか)なのである。今時の子供は大学生になるまで具体的な物を作ったことが少なく、三次元の世界がうまく思い浮かべられない。大学教育の責任は重大である。

 以上、私なりの読書ノートを綴ってみた。以上は私の問いに対する本書の答えであって、バイブル的章立てをもつ本書のことゆえ、別の問いには別の答えがあるはずである。ぜひご一読を−。





日本インテリア学会中国四国支部